気ままにしか発信してこなかった。

書くことは、幼き頃からともにあって、幸運にも周りの大人たちに伸ばして頂いたことで息を吐くようにできた。

しかし、20代で生業のひとつとするようになり、執筆により収入を得る際に、常に「相手の求めるもの」を意識しそれに応じたものを提供しなければならない。

仕事だから当たり前といえば当たり前。

自然とやっていることが「相手の求めるもの」と合致したら、しあわせ。

でも、大抵は逆で「相手の求めるもの」ありきで、そこから逆算して提供する。

特に、当時、各企業や個々にオーダーメイドでヒアリングし、悩みを解決し、望みをかなえるために、具体的に聞き出し、解決策を明示してから、さらに文章を提供するという全て賄っていたので、機械的な作業とは真逆の、とても骨の折れるものではあった。

なかなか出来ることではないゆえに、やりがいはあったが、そこに費やすエネルギーとしては多く、いつしか好きだったことが、「しなければならないもの」と化したとき、いつしか苦しくなってきた。

まさに、私の両極端。

端と端。

・本当は、性質的に自由で、のびのび表現していたい。何も考えず、制限なく、しばられることなく、天真爛漫に。なぜかこの子がいると周りが明るくなる、皆、なごむ、笑顔になる。

そんな性質だったのが、真逆を覚えていった。

・後天的に、しっかりする、まじめにやる、頼れる、相手の求めるものを瞬時に察知し、それに対応する、ソツなくやる、この人がいてくれたら安心、人望もある、いわゆる優等生

 

 

もちろん、どちらも自分であり、嘘ではない。

それに、どちらが良いという事でもない。バランスである。ゆえに、どちらかに偏り過ぎると、途端に苦しみが生まれた。

社会で生きていると、自分を殺して相手に応じることが多くなるし、それが過度になるとストップがかかるようになる。

 

「好きだったことが、嫌いになる」

それが嫌で、手放した。

その後、しばらくリハビリをした。

「本当に、思っていることだけを言葉にしたい」

その思いが強かった。

しばらくかかったが、やっと、もとにもどってきた。

 

 

100%ではないが、随分、戻りつつある。

自分が葛藤し、乗り越えた分だけ、「表現」と「自分自身」の関係性を痛感する。

 

その時の自分そのものが、あらわれる。

 

そして、同時に

「表現すること」のすごさ、偉大さ

表現によりもたらされるものも痛感している。

 

だから、是非、もっともっと表現すべきだと思っている。

 

 

人生を豊かにしてくれるから。

 

 

リハビリ期間も、ここ最近も、自信があるかといえばそうじゃない。

書いた時点で終わり。

自分の中では完結。

その後、すぐに次へと意識が行き、正直すぐに忘れる。(笑)

 

でも、人が教えてくれる。

 

あるとき

数ヶ月ぶりにお逢いした東京のクライアントさんに「こまきさんのブログ大好きなんです!楽しみにしてます」といわれた。

 

またあるとき

「いつも、すごく腑に落ちるし、前向きになれる。力をもらえます。」

などと言われる。

 

その瞬間、「自分が生み出したもので、人の力になっているのか」と驚いた。

すでに忘れていること。

何を書いたかなんて、覚えてない。

でも、在る瞬間に生み出したものが、誰かに渡り、受け取って下さる方がいて

その方の世界に参画する。

どんな形かは人それぞれ。

でも、何かの力となった。

人生において何かしらのエネルギーとしてお渡しできた。

私が、何も考えずに、出したものが、ある人にとってはギフトとなった。

価値があった。

それが、本当に、嬉しい。

そして、人間の営みの中でも、そうやってバドンを渡し合い、循環することで、互いに喜びが生まれるのは

尊く、豊かなことだと思った。

 

 

まさにアバター

自分の分身が、今日も又、世界のどこかで、誰かのちからとなる。

 

 

そのことを知ったからこそ

わたしは

今日も表現する。

発信し続けよう。

 

そう思えたんだ。

 

 

 

あなたも是非、あなたの表現を。発信を。

共に、上がろう。

愛と喜びいっぱいの人生を生きよう。