いつもしっかりしていて、賢くて、甘えたこと言わず人に頼らず、何の心配もない人の涙をみた。
一人で多々抱えていたそう。
私はempathy資質があるため、目の前で泣かれると、いつも感情が移り、もらい泣きしてしまう。
そして、 何でも言える人はいるが、何かと頼れるかというとそうではない方なので、その気持ちが痛いほどわかった。
又、今でこそ元気だが、かつて自分も絶望の日々を過ごした時期を思い出した。
誰にでも、そんなときがあると思う。
頑張っても、頑張っても、うまくいかないとき。
誰にも頼れず、自分一人で抱えていることにも気づけないとき。
精神的につらいとき。
感情や素直な思いを吐き出せればいいのだけれど、それが顕在意識に上がってこないとき。
言葉にもならないとき。
表現できないとき。
まるで、世界中で自分だけが大海原で漂流しているかのような、孤独を味わっているとき。
出口が見えない真っ暗闇のトンネルの中にいるとき。
内容はそれぞれ違っても、味わった経験はあると思う。
そんな時、たった一人でも、たった一つでも、なにか「力」となるものや、希望のひとすじの光となるようなことがあれば、どうにか、その日一日を生きていける。
基本的には、自分の足で立ち、自分で判断し、自分で考え、自分で進む。誰のせいにも何のせいにもせず。
自分の人生を悔いなく、思う存分、自己責任で進むがいい。
でも、それでも、人生の中には、自分ひとりでは進めないときがある。
生きることさえも、しんどい時がある。
そんな時に、そっと寄り添える人でいれたなら
と私は思う。
だって、そんな人は大抵の場合、適当な人はいない。
いい意味で適当に力を抜けないほど、がんばっている。
精一杯やってるんだ。
その人にしか分からない事情や状況なのかもしれない。
それでも精一杯やっていて追い込まれていることが多い。
大局的に見ると、それこそ意味があり、気づくサインであり成長のチャンス。
でも、それにたどり着くまではただただ絶望感を味わうことがある。
勿論それさえも後で見たら意味があったとわかるけれど、渦中にいる時はわからない。
そんな時に、支えや一筋の光や希望となるものがあることで乗り越えられることがある。
実際、私自身、たくさんの人が愛で接してくださり、お支えくださった。
たくさんの人の顔が浮かび、その一人一人の愛に触れては、いまでも涙ちょちょびれる。
私は、見た目と中身のギャップがすごいらしい。
見た目からは内面がわかりにくいらしい。
インドのアガスティアの葉にも、
「あなたは顔は幸せそうです。でも、内面では悩んでいます」と書いてあって苦笑いだった。
普段も、「いつも元気」とか「前向き」「アクティブに動いている」と思われ、内面まで見抜ける人は稀。
その自分も偽りではないが、すべてではない。
かつてどん底だったときも「心配かけちゃいけない」と思うからか、一見元気そうに振舞っていたのか、そう思われていたようだった。
氣付いてもらうことは少なかったが、その分、内面を交し合った人達からの人間愛は凄かった。
力強く、まっすぐにハートに届き、癒し、生きる勇気を与えてくださった。
何の見返りもなく、こんなにも純なる愛を持った人たちがいる。
通常はなんてことないことでも、しんどい時はしみいる。
でも、一度、そんな人間の内なるものに触れたら、その後は微細に感じ取れるようになった。
今もなお、形はないそのこの星で最も美しいものに触れるだけで、やわらかく、慈愛に満ちた感情で満たされる。
その後、「慈愛深い」と言われることが多々あったが、仮にもしそうだとしたら、
紛れもなくそれはその人たちから頂いたもの。
その人たちが、全身全霊で教えてくださったことだ。
愛は永遠だ。
内側を感じてみると、あの時に触れた人間愛がいまもまだ私の中で生きている。
そして、過去の自分のような人を見たとき、目の前にした瞬間、突然顔を出し発動する。
ふと、そのうちの何人かにお久しぶりの連絡をしてみようと思った。
「あの時があるから今がある、ありがとう。」って伝えたい。
ただ純粋に、伝えたい。
この所忘れかけていた優しさ。
今日の気づきを経て、もっと優しくなりたいと思った。
誰かが泣いているその一瞬に
何もできないのは辛い。
自分は自分。
人は人。
ほんの一瞬かもしれない。
その人の人生の中の、ほんの一瞬。
でも、そのひとときを寄り添える、癒しや力となれるなら、私はそんな人でいたい。
大切な気づきに感謝。
もっと磨きます。
「人として」の部分を、もっと。
1つ1つ大切なことを積み重ね、一生かけて完成させます。

何のために生きているのだろう
何を喜びとしたらよいのだろう
これからどうなるのだろう
その時 私の横に
あなたが一枝の花を置いてくれた
力を抜いて
重みのままに咲いている
美しい花だった