最近、私はいろんなことを自分にゆるすことをやってみてる。

弱音を吐けることもそう。

これまでは、タブーだったこと

自分としては絶対ありえなかったこと

他の人は別として、自分はやらなかったこと

 

 

厳密にいうと

「それを体験する流れ」が来てる。

 

 

必然的に

自分の枠を大きくさせられている

「力」がはたらいているのを感じる

それは抗えない力

 

 

 

真逆をやる。

真逆の立場になる。

真逆を知る。

 

そこで初めて見えてくるものがあり

体感することではじめて本当に理解できるものだと思う。それまでは、分かっていたようで、分かっちゃいないんだよ。

 

 

 

ある瞬間

「ああ、昨日まで私が見てた世界は「一部」に過ぎなかった」と

「昨日まですべて」だった世界から幽体離脱して

枠を超えて

より広い世界になっていて

「昨日までいた世界」は「全体」から見た中の一部に過ぎなかった

と気づく。

 

 

 

同時に

「昨日まで見ていた視点」は

1つの切り口に過ぎなかったと気づく。

そんな体感。

 

 

 

 

社会で良しとされているものも

生育過程で教えられてきたこと

インプットされてきたこと

 

これらはどれも「無自覚」なんだよね。

すでに自分の中にインストールされているから

「無自覚」で「無意識」のまま自分の中にある。

自分の一部と化している。

 

その中で生きている

それにより現実が創られている。

 

 

でも、

それは、全てではない。

正しいわけでもない。

 

「現時点での自分」を見つめるとき、常にそのことを知っておくといいよね。

とらわれや執着がなくなり「じゃあ、どうしたい?」と次へ行ける。

 

 

そもそも、自分の意志だけ。

「どうしたいか」

「どう生きるか」だけ。

絶対的で、普遍的な正しさなんてないから。

 

 

 

 

 

あなたにとっての「あたりまえ」(無意識に信じているもの)は、あなたの思考、発想、言動を(すでに)制限しています。

それがすべてではありません。

それは、全体の「一部」です。

ちなみに、「全体」に終わりはありません。

壁はありません。無限なんです。

 

 

このことだけでも、知っておいて。

 

とにかく
※無自覚なのが一番こわいから。

でも、「無知の知」というように、「「自分は知らない」ということを知っている」ことが大事で
「「普段、自覚してないことを」知っている」といい

 

 

 

 

「後天的に注入されたもの」の枠の中で

元々「100ある可能性」が「1~2」になっているかもしれない。

その中で生きているかもしれない。

 

 

だからこそ、当たり前を疑って。

 

自分にとっての当たり前を、疑ってみて。

 

社会の正解ではなく

誰かにとっての正解でもなく

自分だけの真実にしていくこと。

 

 

1こ1こ、外していく。

1こ1こ、手放して、さよならしていく。

 

そして、素の自分で

毎瞬、毎瞬、カスタマイズしていこう。

 

それは、自分の選択。

 

「全部、自分で選べる」

なんて豊かなんだろう。

自由に選べる。

なんて幸せなことだろう。

 

 

 

真逆をやると、

一気に視界が広まり、視座が高まる。

 

全体像を知ったら

自分はどうしたいか選べる。

 

そして、今までタブーだったものや否定したいたものが、フラットに戻る。

 

 

あらゆることを

二元論から中庸へ。

 

そして、

どうしたいか

どう生きたいか

自分で選ぶ。

自分で決めるんだよ。